2010年08月31日

ドイツ文学者 池内紀(おさむ)先生


池内紀(とし)先生夫妻 郷土大学の講師としてお招きしたドイツ文学者でエッセイストの池内紀(おさむ)さんと奥さまが鯛の里へお泊りになった。池内さんといえば旅の達人でもあり、「宮本常一」の旅に絡めたお話しはとても貴重だった。(講義の内容は郷土大学ニュウズであらためてご紹介します)

 数々の授賞作を持つ池内先生が、こんなボロ宿で良いのか・・・・と正直心配だったのだが、そんな心配はまったくあたらなかった。

「私は都会的な今風の設備が整った宿よりも、こんな田舎の民家が大好きなんですよ。テレビも消しましょう。家でも私はテレビを置いてないんです」。

 食事は別の料理屋さんで済ませ、鯛の里ではグラスを傾けながら「宮本常一」談義、旅のお話など、日付が変わるまで実に贅沢な時間をいただいた。

 さて翌朝、先生夫妻は島を歩きたいというので僕がガイドを買って出た。大正の町並みが残る路地が分かりやすいようにと資料をお渡しし、かつて栄えた商店街通りを歩く。夫妻とも真剣に耳を傾けて下さる。時折先生はササッと路地に入る。どうやら感じ入るものがあるようだ。

「先生、さすが。ここはこの島が最初に開けたであろう場所で、この共同井戸から住まいが広がったんだと思います。先生にはお分かりになるんですね」。

 この沖家室はこの小さな周囲4キロの島にかつて明治時代3,000人を超える人が暮らしていた。まさに人口密度は日本一。主産業は遠洋漁業。遠くは中国青島や朝鮮半島、台湾、対馬、ハワイなどに出漁していた。もちろん当時はエンジンなどなく帆と櫓のみで海を渡った。そして、多くの地に枝村(分村)をつくり、漁場を広げていった。旧・東和町の7割以上の水揚げをこの島だけで叩きだしていた。そうした潤沢な資金で商売も盛んとなり、商圏は瀬戸内一円においた。島の中にも商店が軒を連ね、当時商店街通りがあるのは大島の中で沖家室だけだったといい、方々から船で買い物に来ていたと言う。本土のお年寄りから、「小さい頃、沖家室へ買い物に連れて行ってもらうのを楽しみにしていた」とよく聞く。

 今、その賑わいはすでにないが、往時を物語る廃屋のみが遺跡のように並ぶ。池内先生はその姿を石垣にもみたようだ。石積みが素晴らしいと口にする。

 ガイドの最後は沖家室大橋のたもと。ここには「宮本常一」の最後のメッセージが残されている。沖家室架橋の碑である。

 「宮本常一」は1981年1月30日に他界。その数ヵ月後にこの橋が完成。架橋実現に尽力したが完成した橋を見ることはなかった。亡くなる前に泊清寺住職に宛てた手紙が残されている。そこには、

「橋の袂へ記念碑などたてる計画もあるでしょうが、私は国民の税金によってできたものだから、

『此(こ)の橋、全国同胞の協力によって出来ました。感謝します。沖家室島民』

というような碑をたててほしいと思います。政治家や知事の称徳碑はどこでもたてますが、世話をして口をきいてくれただけで一文も金をだしてはいません。金を出した者に対してお礼を言った例は公共事業にはないのです。ただ、目立たないようにし心あるものがそれを知ればよいと思います。すると大変心あたたまる橋になります」

 「宮本常一」のメッセージはその後沖家室島民によって浜の自然石を橋の袂に置いて刻まれた。筆跡は泊清寺の先代の新山晃雄住職だ。僕はガイドの終着点でこの話をするたびに胸が熱くなる。宮本常一の経世済民の思想が貫かれているからだ。

 写真は池内先生夫妻と、かつて先生が神戸大学で教鞭をとっていたときの教え子だという、郷土大学役員をつとめる光田夫妻、現在の周防大島高校の校長先生である。光田さん夫妻は、前日に周防大島の石風呂などの案内を買って出た。

池内先生には旅の楽しさ、奥深さを教わった。やはり旅はいい。またお会いできますように。



posted by 鯛狸(=^・^=)です。 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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